風の狩人


第2楽章 風の軌跡

2 分岐点


「先生」
「風見……。一体どうしたんだ? こんなに遅く……」
結城は戸惑っていた。
「ぼく、ずっと待ってたんです。先生がお帰りになるのを」
「待ってたって。何時から?」
「えっと7時半頃からだったと思います」
「7時半って……」
結城はちらと腕時計を見た。既に10時半を過ぎている。
「取り合えず、中に入ろう」
彼は鍵を開け、少年を招き入れた。結城が灯りを点けると部屋の中はあたたかい光で満たされた。
「ちょっとそこら辺に掛けてて」
そう言うと結城は鞄を置いてキッチンへ向かった。龍一は、ソファーに腰を下ろすと、何気なく周囲を見回した。木製の大きな本棚にはびっしりと楽譜や音楽関係の本が並び、小さな机の上には書きかけの五線譜が載っていた。そして、壁には彼の歴史を物語るような数々の賞状が飾られており、ピアノの上には花が、ソファーにはぬいぐるみが置かれていた。
(どうしてだろう。ここにこうして座っていると、何かほっとする気がする)

「お待たせ」
結城が盆にグラスを2つ持って来てテーブルに置いた。
「どうぞ。アイスコーヒーだけど……」
「ありがとうございます」
龍一は軽く頭を下げた。
「ところで、君、長野へ越すんだって?」
結城も向かいのソファーに掛けて訊いた。
「いいえ」
龍一は首を横に振った。結城は、少し驚いたように少年を見た。が、すぐに思い直したように言った。
「そうか。転校するのがいやだったの?」
「いいえ」
龍一はまた首を振った。
「あちらへ行ってしまったら、全く環境が変わってしまうものね。友達とも別れなければならないし……」
だが、龍一は、それも否定した。
「そんなの、ぼく、平気です。ただ……」
そう言いかけて、少年は躊躇った。
「ただ……?」
結城は、黙ってその先を促した。その視線を受けて、少年が言う。

「ぼく、先生と離れたくないんです」
「え?」
予期せぬその言葉に、結城は唖然として少年を見た。龍一は固く握り締めた手を強く膝に押しつけたまま動かない。その手には、じっとりと汗が滲んでいた。結城は、ふっと微笑んだ。
「それは光栄だね。それで、これから、どうするの? やはり、叔父さんの家に行くの?」
「いいえ」
少年は強く否定した。それから、少し息を吸い込むと思い切って言った。
「あの、ぼくを先生の家に泊めてくれませんか?」
「え?」
結城は驚いたが、時間を考えるとすぐに肯定した。
「そうだね。もう遅いし、送ってやろうにも、僕も今夜は車預けて来ちゃったしね。うん。構わないよ。今夜は泊まって行くといい」
すると、龍一は更に身を乗り出して言った。

「あの、今夜だけじゃなくて、これからもずっと、ここに置いて欲しいんです」
少年は一気に言うと、じっと彼を見つめた。
「それは……」
その質問には即答し兼ねた。龍一は、風の能力者だ。しかも、彼もまたエンブレムの持ち主である可能性があるのだ。その彼を自分の家に置くなんて、あまりに危険な事であるように思えた。
「やっぱり駄目ですか?」
龍一は落胆したように言った。
「そうだね。それは君が考えるほど簡単な事じゃないんだ」
「もしかして、先生、結婚するんですか? それとも、恋人が……」
「え? 何故? 今のところ、そういう人はいないけど……」
「それなら、どうして? ずっと側にいて守ってくれるって言ったじゃないですか? ぼくも、風の狩人になれるって。どうしたらなれるのか、ぼくは、それを教えて欲しいんです」
真剣な眼差しで龍一は言った。
「確かに……。でも、それは、君がもっと大人になったら……」
結城は、何となく視線を逸らした。その先には、横に倒れたままのぬいぐるみが置かれている。

「いやだ!」
龍一が、突然叫んだ。それから、子供のように涙を流した。
「風見……」
結城は困惑し、しばらくそんな彼を見つめていたが、やがて、少年の隣に座ると、そっとその背を摩ってやった。
「そうだね。そうだったよね。でも、今はいろいろと難しいんだ」
しかし、龍一は拒むように激しく首を横に振り続けた。
「とにかく、明日、学校から戻ったら相談しよう。今夜はもう遅いから……。ね?」
結城がなだめるようにやさしく言うと、少年もようやく微かに頷いてみせた。

(あの子は、もう眠りについただろうか?)
午前1時を過ぎていた。結城は一人眠れずに台所でグラスを傾けていた。
――先生。ぼくをここに置いてください
龍一の言った言葉が何度も心の中でリフレインした。
「そうだね。でも……」
結城はグラスを呷った。
「それは出来ない。出来ないんだよ」
自分に言い聞かせるように言う。
(浅倉が、奴が生きている以上、君を巻き込む訳には行かないんだ)
結局のところ、明日は、ちゃんと学校に行き、もし、叔父さんの家に行きたくないのならば、児童相談所に行くなり、何か方法を考えようという事になった。そして、結城自身も、明日には辞表を提出する。後任はすぐに見つかるだろう。それから、ピアノ教室の子供達に話をして……ここも引き払う。結城はグラスを軽く揺すった。氷が心地よい音を立てた。
「そうして、僕は……」
彼はグラスの酒を飲み干すと、すっと席を立った。
(何処に行くのだろう?)
母もなく、ナザリーも、今は遠い……。
(僕の手の中には、もう何も残っていないのに……)


風が吹いていた。過去の夢幻を渡る風――。五月の風はさわやかな緑を含んで輝いていた。
「すごい。直人、あなたはもう風を呼ぶ事が出来るようになったのね」
ナザリーが言った。ドイツに渡ってから3ヶ月目の事だった。
「いや。僕なんて、まだまだ。茂の方がもっとすごいよ。彼は、もう闇の風を扱う事が出来るんだ」
「そうね。でも、闇を浄化する風は光よ。闇の風は災いの風。人を幸せには出来ないわ」
「でも、闇の風は力。時には、人を救う切り札になる」
「そして、人を殺す武器にもなる」
「心配しないで。たとえ、その力を手に入れたとしても、僕はそうなったりしない」
結城は言った。
「僕はみんなが幸せになるためだけに、この力を使うよ」
真剣な瞳だった。
「信じてるわ、直人。あなたを……」
ナザリーはじっと彼を見つめた。匂い菫の花が香る庭で……。あの頃は、やさしい風がいつも二人を包んでいた。

風の能力者の存在は、日本ではまだ、ほとんど認識されていなかった。が、西洋では、かなり本格的な研究が進められている。特に、ここドイツでは、優秀な風使いには「風の狩人」という呼称が与えられ、実際の任務さえこなしていた。
企業が出資した能力開発プロジェクトの責任者であるベルガーは言う。
「人類の歴史には、どうしても避けられない負の側面が絡む。怨念と災いの記憶を持つ闇の風が出現すれば、多かれ少なかれ被害が及ぶ。が、残念ながら、我々人間がそれらを全て感知し、浄化する事は不可能だ。が、少なくとも、大事な場面での事故や損失は出来る限り防ぎたいと願う。マイナスのエネルギーを持つ闇の風を見分け、クリアにする力を持つ若い人達には大いに期待している。と言うのも、十代二十代の若者の方が圧倒的に感受性が強いというデータがある」

浅倉はそのベルガーの家に招かれ、結城は研究者であるクラウス・バウアーとその妹、ナザリーの家にホームステイしていた。


日曜日。ベルガー夫妻やバウアー兄妹がミサに出ている時、浅倉と結城は連れ立って近くの森を散策した。
「あーあ。直人、おまえはいいよな。ものわかりのいいバウアー家でさ。俺んとこなんか何でも規則規則ってやかましいんだ」
散策路を行き交う人々が通り過ぎるのを待って浅倉は日本語で言った。
「でも、夫人の料理は最高だって言ってたじゃないか」
「ああ。それだけは恵まれてるけどさ」
森には小動物達もいた。今も松の木の陰からリスの親子が顔を覗かせている。
「特に午後のお茶の時出されるケーキは絶品だよ。あれで、もう少し若ければ目の保養にもなるんだけどな」
「贅沢言うなよ。僕達は、風の狩人になるための修行に来ているんだからさ」
「そうだな」
浅倉が皮肉に笑う。彼らには見えているのだ。平和に雑談しながら通り過ぎる人々の間を行く闇の風が……。そして、彼らは使う。その闇を……。浅倉はふと幹の間から顔を出した兎に向けて闇の矢を放った。集約した風がその身体を撃ち抜く。結城が駆け寄ると兎は既に絶命していた。

「あは。スープに入れるにしても、こいつはまだ小さ過ぎるかな?」
その耳を掴んで浅倉が言う。
「スープだって?」
結城が顔を顰めた。
「何だ。美味いんだぜ。それに、この国では兎も食うんだ。おまえだって知ってるだろ?」
「そうだけど……。僕はとても口にする気になれないよ。ナザリーも兎の肉は食べないと言ってた」
「おまえに合わせてくれてるんじゃないのか?」
浅倉は小さな死体を草むらに放った。
「それに、こんな所で狩るなんて……。ここは狩猟区じゃないんだよ」
「心配すんな。証拠なんて残らないさ」
軽く手を振り、浅倉が言った。今は誰も通ってはいない。先程まで近くにやって来たリスの親子も姿を消した。森はしんとしていた。

「なあ、直人。おれ達なら届くと思わないか?」
結城の肩に手を乗せて彼が言う。
「届く?」
軽く触れているだけなのに、その手はやけに重く感じた。
「誰にも手が届かなかった栄光。闇の風の力を使えば何だって出来る。かつては日本にもすごい闇の風の使い手がいたんだってさ。つまり、おれ達にだってその可能性があるって事さ」
「そんな事……。強さだけが正義じゃないよ」
結城は、草むらの向こうを見ていた。
「強くなければ愛する人だって守れないんだぞ。たとえばほら、おまえが大好きなナザリーだって……」
浅倉はからかうようににやにやした。
「決め付けるなよ。それに、そんな事言われたら、ナザリーが迷惑するだろう?」
「はは。照れる事ないだろ? 彼女だっておまえの事好きだって言ってたぜ」
「それは……友人としてだろ?」
その時、教会の鐘が響いて来た。結城は陽射しを避けるように軽く手を翳した。
「来いよ。きっと彼女がお待ちかねだぜ」
そう言って笑う浅倉の顔に明るい陽光と教会の影が重なった。
「ごめん。あとで土に返してやるから……」
草むらに捨てられた死体に呟くと結城もその後を追った。


――おれ、反省したんだ。おまえは、信じてくれないかもしれないけど……。本当に、馬鹿だったと思う。自分の私利私欲のためだけに、この力を使うなんて……。世界には、もっと力を必要としている人達がいるのに……。おれ、これからは、そういう人達のために、この力を使おうと思う。おまえも来ないか? ドイツへ……。共に、世界の人々を幸せにするために

そして、彼らは財団法人「木ノ花会」が募集していた海外留学生のための奨学金を受け、ドイツに来たのだ。
それから、二人は2年間、専門家による訓練を受けた。そして、闇の風について学んだ。そこでは科学的にも系統立った研究がされており、日本では得られないガイストについての概念や最新の研究成果などを学んだ。

そんなある日。浅倉が訊いた。
「直人、おまえ、『ダーク・ピアニスト』って奴の噂知ってるか?」
「いや、今初めて聞いた」
「滅多に人の前には現れない。伝説のピアニストと言われている」
「伝説?」
「ああ。その演奏は聴く者の魂を魅了し、虜にしてしまうという」
涼やかな風に乗ってその音が聞こえないかと結城は耳を澄ませた。
「しかも、そいつの能力はピアノだけじゃない。闇の風の使い手としても桁外れだというんだ」
「狩人なのか?」
結城は訊いた。
「ああ。実を言うとさ、おれはそいつに会うためにドイツへ来たんだ」
浅倉はこっそり耳打ちするように言った。
「僕もその人に会ってみたいな。そして、その演奏を聴いてみたい」
「よし。それなら、二人で手分けして探そう。いくら広くても二人ならきっと出来るさ」

しかし、その男の行方はついに掴む事が出来なかった。
結城はその人物がどんな演奏をするのか知りたかった。それほどまでに人々を熱狂させるというピアニストの演奏を聴けるならどんな事でもしたいと願った。一方、浅倉は、その男が持つという風の能力の方を知りたがっていた。浅倉はここでの訓練でかなり腕を上げ、自信を持っていた。彼は自分の強さをアピールしたがっていた。競い合うのは悪くない。が、浅倉の並々ならぬ執着を思うと、その人物を見つけ出す事に少々不安も感じた。そして、浅倉の執着はその結城自身にさえ及んでいる。彼はまだその事に気付いていなかった。


「次のクリスマスには、一度日本へ帰ろうと思うんだ」
リビングでピアノを弾いていた結城が手を止めて言った。
「そうね。直人はもう、2年も日本へ帰っていないから、きっとお母様も心配しているでしょうね」
アドベントカレンダーを設置していたナザリーが振り返って彼を見た。
「出来れば、君もいっしょに来て欲しい。母に会わせたいんだ」
「直人……」
彼女は、僅かに頬を紅潮させ、はにかんだように頷いた。月日が経つにつれ、二人は互いを理解し、愛し合うようになっていた。兄のクラウスも、二人の報告を聞いて喜んだ。
「ずっと兄妹二人きりだったからね。私も嬉しいよ、直人」
クラウスが研究している古文書によると、風の能力者は遥か昔から存在していたらしい。そして、時折現れる強大な力を持った能力者が、世界に変革をもたらすのだと言う。そして、今が再びその時かもしれないとクラウスは推察していた。その考察について、彼は熱心に語った。

しかし、幸せは長く続かなかった。そのクリスマスの少し前、悲しみの知らせは、唐突にもたらされた。
「え? 母さんが……?」

結城の母が事故死したという電話がすべてを変えてしまったのだ。
「直人……」
ナザリーはそんな彼を気遣ってくれた。
彼はすぐに帰国した。母とは数日前に電話で話したばかりだった。ナザリーと二人で帰ると聞いて、母はとても喜んでくれた。彼女に会うのが楽しみだと言って、何を食べさせようとか、何処に連れて行こうとか彼と相談していた。が、現実は冷たかった。彼は日本で葬儀を済ませ、必要な手続きをして再びドイツに戻った。

ところが、到着してみると全てが変わってしまっていたのだ。連絡したにも関わらず、ナザリーは空港に来なかった。クラウスは妹の不在を詫びたが、直人はどこか違和感を感じた。

「ナザリーは、君の事を愛している。だから、妹を信じてやって欲しい」
別れ際、クラウスはそんな事を言った。彼は、翌日から古代遺跡の調査に出るのでしばらく留守になると言う。
結城は一人でアパートに向かった。と、その途中、ナザリーと浅倉が親しそうに歩いているのを見た。しかも、彼らが連れ添って入って行ったのは、ホテル……。

「どういう事なんだ?」
2時間後、結城は、彼女と別れた浅倉を呼び出した。
「どういう事だって? 彼女はもう、おまえのものじゃないって事さ」
「何を言ってるんだ」
「彼女はもう俺のものになったのさ。外国の女って積極的だよな。おまえ、恋人のくせして一度も抱いてくれなかったって彼女が嘆いてたからさ、俺が慰めてやったんだけど、そしたら夢中になっちまってさ。一晩に何度も求めて来るから参ったよ。俺、悪いが女に興味ないのにさ」
「浅倉……!」
気がついた時には、相手の顔面に拳を叩き込んでいた。それでも尚、浅倉は笑みを浮かべている。
「ふふ。ほんとの事だぜ」
「まだ言うか!」
更に平手で殴りつける。彼女を侮辱された事が許せなかった。浅倉はぶざまに尻餅をついたが、それでも顎を撫でながらにやにやと笑っている。

「貴様、彼女に何をした?」
「何も」
浅倉は無表情で立ち上がると吐き捨てるように言った。
「俺は、欲しいものは必ず手に入れる主義なんだ。ナザリーは、もう俺のものだよ。そして、いつかはおまえも手に入れる」
「どういう意味だ?」
「わからないか? すべては、俺の手の中にある。生かすも殺すもおれの自由さ。おまえも、ナザリーもね。ま、せいぜい飽きられないようにしろよ。命なんて儚いものだからね。おまえの母親みたいにさ。あれは、本当に事故だったのかな? もしかしたら、闇の風の仕業かもしれないよ。だとしたら、皮肉だよね。おまえは、風の狩人なのにさ。一番大切な人を助けられなかったなんてね」
「……!」
浅倉はそう言うと、笑いながら雑踏の中へと消えて行った。